アメリカ女性のカレン・キングストンという方が書いた『ガラクタ捨てれば自分が見える』という本がたくさん売れて、今や本屋の書棚には「捨てることで運気が上がる」というような本が溢れ、売れに売れている。
「整理整頓」が人の道の基本であることは、多くの日本人がきちんと認識していることだと思うが、高度成長時代からバブル絶頂期に至る間、増やせ増やせとモノを買い漁る習慣が日本人の暮しの中に根づいたようだ。
そんな風潮の中、「きものを捨てる」という人も後を絶たない。
きものをそのままゴミ捨て場に置き、今度は帯をその場に持っていこうと、ちょっと場を外してもとの場所に戻ったら、きものは影も形もなく消えていたという。
「捨てたきものを持っていく人もいるのねえ」
と感心しているらしいが、私には「きものを捨てる」という回路がない。
或るセレブ姉妹が母上のきものの始末に困っている、ということで、そのきものの価値を見て、ほしい人に差し上げるか、古物業者に渡すか、廃品業者に持って行ってもらうかを専門家に区分けしてもらいたいという話がきた。
二人の姉妹に、「おきものはお召しにならないんですか」と聞くと、
「ふだんは全く着ません。祝事や不祝儀用とひと揃い持っていれば、それで用が足りますから」と二人は口を揃える。
桐ダンス三棹には母親の思い出のきものや帯がぎっしり詰まっていて、その一枚一枚を丁寧に拝見した。さすが上流階級に属する方だけあって、見事なきものと帯ばかり。
しかし聞くと、「汚れていたもの、色が変わっていたものはすべて処分しました」
すでに捨てたということだ。
一枚一枚のきものにまつわる思い出を口にはしても、とにかくこの荷物から立ち去りたいという思いがひしひしと伝わってくる。
「染めの技術、糸の質、織りの技術の素晴らしいものは、職人さんたちに寄附なさったらいかがでしょう。ご紹介しますが・・・・・・」
と申し出て、選別し、
「できるだけきもののお好きな方へ差し上げたらよろしいのでは・・・・・・」
きれいに分別して辞去した。
一ヵ月後。
「すべて廃品業者に持って行っていただきました。十万円の手数料で引き取っていただきました。」
つまり、十万円出して、高価なきもの百枚、帯八十本を持ち去ってもらったというのだ。
このようなケースは珍しいわけではなく、
「姑のきものは全部捨てました」
「今はきものを差し上げても喜ぶ人はいらっしゃらないんですもの」
もっとひどい人は、桐のタンスを粗大ゴミに出すため、マンションの屋上から地上に落とし、バラバラにして捨てたという。
「捨てる」ということにルールがある。
自分に役立たなくても、他の人に必要かも知れない。もう一度まわりを見よう。
そして更に、一度買ったモノは愛着が出るまで使い切りたい。長時間使わなければ、そのモノは衰えてしまい、魅力がなくなる。ギブスで足を固定していると足が弱るのと同じ。
きもののリサイクル・ショップが日々増えているのは、前述のような姉妹が多いせいだと思うが、その前に「買う」という衝動をもう一度よく検証する必要もありそう。
日本人はモノを大切にして来た。一度求めたものはその命を全うさせた。きものはその模範的女王で、裁つときから一ミリの布も捨てず、繰りまわし繰りまわして、最後は小さな布でお手玉などを作って、布の命を使い切ったものだ。
ほんとうに必要なものだけに囲まれて生活すれば、それだけで運気が整う。
いま「もったいない」「捨てる」の狭間で、きものは行き場のない淋しさに戸惑っているように思う。
文・中谷 比佐子
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